手本にはなれんが、見本ぐらいにはなれる

猪居ギター教室レッスン(7/6)
相変わらず、脱力できるフォームに関する試行錯誤を繰り返して、見てもらっています。

気にしているポイントは3つ
・左手を脱力して、肘が基本的にストンと落ちていること。
・左手の小指が、指板に近い状態を保つこと。
・人差し指は、無理に立てずに倒し気味でもよい。

これを意識しながら、基礎練習をして、カルカッシのエチュードNo.5,No.6とソルのエチュードNo.6(OP35-17)に取り組んでいます。

ところで、フォームに関して一番大切なことは、「正解が与えられる」と思わずに、自分で自分に適したフォームを探すことであると思います。

私は今習っている先生を尊敬しています(だから習っているわけです)。しかし、教えてもらえること、ことフォームに関しては、言われてはいはいそうですかと完全に鵜呑みにするわけにはいかないとも思っています。
私と先生は体格も違うし、筋肉の付き方も違うし、指の長さも違う。爪の生え方も堅さも違う。使っているギターも違うから、音の出し方も完全に一致するわけではない。だから、教えていただいた中から、何が自分にとって有効かを判断し、選ぶことが必要だと思っています。(もちろん、言われたことはまずやってみる、と言う姿勢が必要であるとは思います。)

インターネットが広がっていて、「クラシックギター フォーム」とか「クラシックギター 脱力」とか調べると、すぐに色んなサイトが引っかかります。私のこのブログも、そう言ったキーワードで見にきて下さる方がいるようです。ありがたいことである反面、ある種の怖さを感じるんですね。

インターネット上とはいえ、誰でも見られる所に意見を書いている以上、自分の書く内容に無責任にならないよう注意はしていますが、注意したからといって誤った情報を配信してしまう可能性はあります。また、私にとって有益でもあなたにとって不利益である可能性は否定できない。

そこで、冒頭の言葉が出てくるわけです。
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この本で私が紹介するのは、読者のひとりひとりが自分勝手なやり方を発見するためのサンプルにすぎない。
「手本にはなれんが、見本ぐらいにはなれる」と言ったのは、北陸の生んだ仏教者で、清沢満之の門弟三羽烏のひとりだった高光大船である。私はこの言葉がとても好きだ。簡易食堂の薄汚れた陳列ケースにならんでいるプラスチックのサンプル。見本は手本とちがって重くない。それを見おろして、あれこれとあげつらうことも自由である。
\\\
これは、五木寛之さんが著書「知の休日」の中で語られている文章です。私なんかと五木寛之さんを同列に語ることはできませんが、この文章の「本」を「ブログ」に置き換えると、私の心境にしっくりきます。

手本にはなれなくても、見本にはなれる。ひょっとしたらそれは悪い見本かも知れないが、そう言う観点がある、と言うことを知らせる事ができれば、それはそれでやはり有用なのではないでしょうか。
なので、私のブログでは、「私の解釈では」やそれに似通った言葉が頻出していると思います。
#単なる責任のがれとの説もあります。w

記事を書く側も読む側も、教える側も教えられる側も、「手本にはなれんが、見本ぐらいにはなれる」の気持ちを忘れずに、その人なりのやり方を模索する一助となれれば一番素晴らしいことだと思います。
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