水中にもぐり、そして浮かび上がる

珍しくブログで連続投稿となります。と言いますのは、尊敬するギタリスト、松下隆二先生のブログを拝見し思うところがあったからでして・・。長文になった上に、論文調の文体になってしまいましたが、ご拝読いただけると幸いです。


私の尊敬するギタリストの一人に、九州は福岡に在住の松下隆二先生がいらっしゃる。その松下先生が、ブログにて、「予習の意義」というタイトルでの投稿をされていた。ぜひ原文を読んでいただければと思うが、勝手に雑に要約させていただくならば、こういうことだろう。「予習をガチガチにすることで、レッスンでの柔軟性が失われるのは困り者だ。それなら予習しないで来てくれた方がよい。しかし最近は、間違ったことをやるより、習ってから取り組んだ方が無駄がない、と打算的に考える人も多いようで、それもどうかと思う。」

これを読んで、思ったことが二つある。

一つ目は、この約20年での「インターネットの台頭」である。なんでも「ネットが原因!」という年寄りにはなりたくないものだが、実際に思ってしまったのだから仕方がない。20年ほど前、私がまだ中高生だったころには、まだ「ググる」という言葉はなかったように思う。そのころは、何か知りたいことがあれば、友達に訪ねる、学校の先生に聞く、図書館に行って調べる、というのが当然だった。また、英単語一つ調べるにあたっても、辞書を引き、様々な候補の中から文章に当てはまる意味を探した。そのような中で自然と身に付いたことは、「問いと答えは、簡単に一対にできるものではない」という、私にとっては当たり前の事実だ。

しかし、今や時代は変わった。「Aとは何か?」とググれば答えが出てくる。あるいは、知恵袋で誰かが教えてくれる。本来なら文化と文化のせめぎあいであるところの言葉でさえ、「Question」と入れれば「質問」と一義的に返ってくるようになった。手間暇、面倒くささとの葛藤の中で、時間をかけて探し出すもの、自分なりの解答を作り出すような時代は過ぎ去ったのだ。

もし世の中が単調さにあふれるようになったとしたら、もしも打算的な人が増えたとしたら、それは「A」と聞けば「B」という解答がある、という前提、あるいは「正しさ」にはスマートにアクセスすることが可能なのだ、と言う受動的発想が根底にあるのではないだろうか。

そのような考え方に慣れている人からすれば、「この曲の『正しい』弾き方を教えてください」という質問を投げかけ、答えを求めることはなんら恥ずべきことではなく、むしろ誇るべきスマートな方法とすら言えるかもしれない。


もう一つ思い出したのは、水面に浮かぶ人、水中にもぐるる人、という説話である。これも少し長くなってしまうが、引用したい。


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ノーマン・マルコムの『回想のヴィトゲンシュタイン』の中に、ウィトゲンシュタインが、哲学をしばしば潜水にたとえた、という話が伝えられている。人間の体は、自然にしていると水面に浮かび上がる傾向がある。哲学的に思考するためには、その自然の傾向に逆らって、水中にもぐろうと努力しなければならない、といった話だった。この話を読んだとき、ぼくはこう思った。でも、ひょっとしたら、人間の中には、自然にしていると、どうしても水中に沈んでしまうような特異体質のやつがいるんじゃないか、そしてたとえばウィトゲンシュタインなんかがそうなんじゃないか、と。
(中略)
水中に沈みがちな人にとっての哲学とは、実は、水面にはいあがるための唯一の方法なのだ。ところが、水面から水中をのぞき見る人には、どうしてもそうは見えない。水中探索者には、何か人生に関する深い知恵があるように見えてしまうし、ときには逆に、そんな深いところに沈むことが、水面でのふつうの生活にとってどんな役に立つのか、なんて、水中にいる人が聞いたら笑いたくなるような(あるいは泣きたくなるような)問いが、まじめに発せられたりもする。この二種類の人間にとって、哲学の持つ意味はぜんぜんちがう。
(中略)
どんな入門書でも、口先ではみずから哲学することの重要性を説くけれど、そういいながら、実は哲学説の鑑賞の仕方を教えているにすぎないことが多い。哲学説(すでに哲学された他人の思想)をよく理解しよく味わって水面生活を豊かにすることと、自分で哲学する仕方を学ぶこととは、たぶん、なんの共通性もないのだ。思想を享受することと思考を持続することとは、むしろ真っ向から対立する。ひとが哲学を必要とするふたつの道筋は、驚くべきことだが、おそらくはまったく交差していないのだ。

<子ども>のための哲学 永井均著、講談社現代新書 P194より引用
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この文章、私は大好きで、これを読むと泣きたくなる。私は、水中に沈んでしまうタイプの人間だから。

ところで、この文の二種類の人間、というのは「哲学」を「音楽」に置き換えても成り立つように思う(自然にしていると浮かぶのか、沈むのか、というところは議論の余地があるにせよ)。音楽説をよく理解しよく味わって水面生活を豊かにすることと、自分で音楽をすることとは別なのだ。そして、自分で音楽をしている人の中にも、他人が音楽した結果を模倣することで上達を目指す人が、実は大勢いるように思う。

これはどちらがよいとか悪いとか、優れているとか劣っているとかいうことではない。しかし、私自身としては、自ら悩み試行錯誤し、それを楽しむ人間でありたい。そういう過程を経て、結果として生み出された音楽をこそ、私は慈しみ愛することができるように思う。

もし、この文章を読んで、あぁ、私は水面に浮かび、答えを求める側の人間だな、と思った方がいたら、こと音楽に関しては、ぜひ水中でもがき、ようやく息継ぎをすることの苦しさと喜びを一度味わってほしい。私の尊敬する松下先生、猪居先生は、この試行錯誤を否定せず、むしろ一緒になって迷ってくれる方だと思う。だから、好きだし、これからも色々な曲を学んでいきたいと思う。


とまぁ、長く書いてみました。結局言いたかったことは、せっかく自分で音楽をしようとするのならば、もがき苦しんでみてもよいのでは、というマゾの勧めです。そして、そんなアプローチを、無駄だとか馬鹿げてるだとか言わずに付き合ってくれる先生が身近にいると仕合せですね、というある種のノロケでした。笑 と、笑って書きましたが、そういう寄り添い方をしてくれる先生は、本当に貴重なんじゃないかなぁ。

筆者注:人生に対して水中に沈むスタンスは、本気で息苦しくなるのでお勧めしません・・

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池田慎司先生公開レッスン受講

10月29日に、福岡で活躍されるギタリスト池田慎司先生の公開レッスンを受講しました。岩崎慎一先生の主催で、高橋通康さんにご紹介いただきました。ありがとうございました。

私は Francis Kleynjans の CINQ NOCTURNES(5つのノクターン)より Nocturne No.1で受講しました。最近あまり弾ける曲がなかったので、マイナーな曲で池田先生も知らない曲となってしまい、少しもったいないことをしました。でも、知らない曲に対して、その場で楽譜から音楽を作られていく様を見ることができたのは、ある意味では逆においしい(?)体験でした。


以下、レッスンを受けて学んだ内容です。
・弾けば弾くほど怖くなる、緊張するという悩みに対して。大きな流れの中で、時間に乗っていく。自分が音楽を始めるのではなく、遠くで流れている音楽に自分が乗っかる感覚を試してみる。

・フレーズを分け、責任も分割する。長いフレーズをすべて同じ密度、同じ重要さで弾くのは緊張の原因となり、難易度も高くなる。最初に強調すれば、あとは流して自由に歌う、くらいで構わない。

・ゆっくり演奏する練習をする。この時、単にゆっくり弾くのではなく、ゆっくり弾くときにも音楽を成立させること。例えば、ビラロボスのエチュード1番だって、ゆっくり弾いても曲として聞かせることができる。ゆっくりでもギアを常にかけておくイメージ。

・普段と違う音を出す練習をする。しかし、五里霧中にならないよう、「今自分は音探しをしている」と言うことを忘れず頭の中に残しておくこと。

・演奏を固定化させないために、自由に弾けるようにする。すると、演奏本番でも思ったことに対応できるようになる。例えば、リズムを変える、店舗を変える、拍を変える、とか。

・メトロをつけて、インテンポの状態でルバートの練習をする。ゆっくりしたいところは、その前の箇所を速く演奏することで、ゆっくり歌う時間を作る。
  ⇒ピアソラのアディオス・ノニーノで実演がありました。自由にテンポを揺らして無茶苦茶に(失礼)自由に弾いているように見えるのに、メトロにはなぜかしっかり乗ってくる、という、なんかマジックを見ているような狐につままれているような・・?衝撃でした。

・その人の音や表現に合った(=しっくりくる)テンポというものがあると思う。少し早くや遅くなどを試し、自分にしっくりくるテンポを探してみては。

・リタルダンドとラレンタンドの違い。リタルダンドは、自然と、あるがままにゆっくりとなる。ものが重力のせいで自然と落ちるようなイメージ。大して、ラレンタンドは、意識的に落とす。イタリアでは、道路のカーブで速度落とせの看板には「ラレンターレ!」と書いてあるらしい。

・rit.やral.で、人に違和感を感じさせない節度はどうすれば身につく?
⇒わざと平坦な(テンポや強弱をつけない)演奏をする。あとは、例えば重奏やアンサンブルをたくさんやるといい。


正直、自分のレッスンよりも、他の方のレッスンを聞いている方が勉強になりました・・汗。知っている曲ばかりだったというのもあるかもしれませんが。

マジックを見るときは、「タネがわからないから面白い、タネを聞くな」というのが一つの暗黙の了解ではあります。しかし本当に優れたマジシャンだと、タネがわかってなお、むしろタネがわかっているからこそ、もっとテクニックに酔いしれる場合もあります。音楽も、共通するものがあるように感じました。なぜこの人の演奏は胸を打つのか、素晴らしいのか、と考えたとき、そこにある謎をもっと知りたい、と思いました。

松下隆二先生 公開レッスン受講(1/19)

今年も、福岡在住のギタリスト 松下隆二先生の大阪公開レッスンが開かれます。
毎年2月に来られているのですが、私が今年は2月忙しいので無理だろうと諦めていたところ、、今年はなんと1月に来られるようです。受けられてしまいました。^^

まだ空きコマもあるようですので、興味のある方は是非私まで連絡をください。詳細をお伝えします。
受講はもちろん、聴講も勉強になりますのでお勧めですよ。

さぁ、受講曲を決めないと・・汗

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作曲家に寄り添うギタリスト松下隆二先生を福岡からお招きして
下記の通りレッスン会を開催しますのでご案内します

開催時間は午後1時から7時までで
レッスン内容は50分の個人レッスンで公開形式です
レッスン会の受講を希望される場合は私までメールを下さい (※麻尾までお願いします)
聴講は大歓迎です(聴講料1,000円、事前連絡不要)

○松下隆二先生のレッスン会
2013年1月19日(土)、20日(日)
会場 守口国際交流センター第1会議室
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松下隆二先生公開レッスンメモ

前回記事の続きで、松下隆二先生の公開レッスンのメモです。
#いつものごとく、レッスンを受けた上での私の解釈であり、誤解や誤記があっても松下先生の責任ではありません。

・カルカッシのエチュード
全音社のカルカッシのエチュード(溝渕浩五郎編)は、リョベート編を元にさらに溝渕さんの注釈等が込められていて、必ずしもカルカッシの意図した通りではない。

例えば、下記の通り
○No.2
「espressivoとは表情ゆたかにとの意味であるが、あまり表情をつけすぎるとくどく下品になるから注意すること。」との記載があるが、これは時代背景を考えること(溝渕さんは明治44年生まれ)。当時の日本ギター界だと、「表情豊かに」と言うと演歌っぽくゆらしたり爪っぽく弾いたりくどくなる人が多かったのではないか。現代だとそんな人は少数だろうから、きちんと指示通りに表情をつけて弾けばよい。
→トニックからドミナントへの和声の変化、ペダル音の持続や解決などを感じて、表情豊かに弾く。

○No.7
・pamiのトレモロ奏法の指使いの指示があるが、オリジナルにはこの記載はない。カルカッシ的には、pimiの指使いで弦をまたぐことを意識して書いた可能性もある。(タレガの弟子のリョベートが、トレモロ奏法の練習曲として追記したのかな?)

○No.8
Aの2小節目やBの3小節目などは、開放1弦のミを使っていて、元々はスラーの指示ではない。また、B2小節目のド♯はナチュラルの間違い(元々調号が入っているのに、臨時記号でドをシャープにするはずがない)。

あとは、
・フレーズは各小節の1拍目で終了して、その裏から次のフレーズが始まることを意識すること
・和声を感じること。
・同一弦の下降スケールで順次複数の音を出していく場合は、始めに左手で全てのフレットを予約してしまうこと。逆に上昇スケールの場合は、次の弦に映るまでは一度おいた左手を動かさない(基礎練習と割り切るならの話)→こう言う練習を繰り返すことで、自分にとって素直で最適な運指が身についていく。


以下は、他の生徒さんのレッスンを見ていたときの一般的な内容です。
・プレリュードとは元々、調弦・調律を確認する目的で即興で組曲の前に演奏されていたもの。様々な調性での響きを確認する必要があるので、転調を繰り返す構成となった。なので、即興的に、手探り状態のなかで次の転調先を探すように演奏するとプレリュード的となる。
・音色の変化で音楽表現をするのは、ギターにとって諸刃の剣。なぜなら、他の楽器では音色の変化なしで音楽表現を現にしているから。音色の変化に頼りすぎず、しかしギターのよさとして音色を生かすバランスが大事なのではないか。
・パッサカリアはシャコンヌと似た様式で、2拍目にアクセントがくる。
・ヘミオラにかんしては、同一曲のなかでやってもやらなくても自由。センス!ただし、ヘミオラの可能性があることに気付いているのにしないのと、気付いていないのとでは大違い。とは言っても、そもそも、ヘミオラかどうかは断言できるものでもないので、終止形の前では、「ヘミオラがあるんじゃないか」と勘ぐりながら楽譜を見るくらいの方がよい。
・多層的に重なる曲は、声部毎の横の繋がりを意識して演奏すること。演奏する際に、意識する声部の旋律を歌いいながら弾くのはよい練習になる。

松下先生、主催の高橋さん、共催の大阪ギタースクールさんありがとうございました。
こう言ったレッスン会は、自分が受けるのはもちろんのこと、他の方のレッスンを聞くのも大変参考になります。ご興味がある方はぜひ参加してみてください。もちろん私にご連絡いただいても、関西近郊のレッスン会は案内させていただけるかと思います。→連絡先はプロフィール

一流のコックさんじゃなくても、おいしい家庭料理を作ることができる

松下先生の公開レッスンを受講してきました。今回もたいへんためになりました。
自分のレッスンもさることながら、他の方のレッスンを聞くのもものすごく勉強になりますね。

他の方の受講を見ていて、初めてバッハに取り組んでみたいかも、と思いました。これまでは難しそう、敷居が高そうでずっと敬遠してきたのですが。きっと、今回のレッスンの内容が、導音や四度進行・偽終止など、私がちょうどぎりぎりわかるくらいの内容だったのが大きかったのだと思います。とは言え、興味はどちらかと言うと音楽的な興味と言うよりもパズル的な、理系心をくすぐられる、と言うところが大きく、実際に取り組むかはまだどうかな、、でも、食わず嫌いの苦手意識がなくなったのは大きいですね。

私は、カルカッシのエチュードを用いて、脱力などのメカニカルな部分を見て欲しい、と言ってレッスンを受けました。結果、もちろんメカニカルな部分のアドバイスはいただきましたが、どちらかというと、エチュードを「音楽的に」弾くことに主眼をおいたレッスンをしてもらうこととなりました。これは、技術はあくまで音楽を表現するためのものであり、表現なくしてテクニックを磨いても仕方がない、技術と表現は表裏一体である、と言う松下先生のメッセージなのかな、と私は受け取りました。

詳しいレッスン内容は後日また書くとして、今日はレッスンの後食事会で松下先生がおっしゃられていた一言を書きたいと思います。

私が「クラシックの曲にクラシックとして取り組もうとすると、どうしても専門に研究している人に敵わない。なので、クラシックのテクニックを積極的に取り入れていきたいと思って、今日は音楽的な内容よりもテクニックを教えて欲しいとお願いした」と言ったようなことを言ったところ、

アマチュアの方がプロの方に敵わないとは限らないんじゃないですか。一流のコックさんじゃなくても、おいしい家庭料理を作ることができますよね。むしろ、プロと言うと、こうしなきゃいけない、こうあるべきだに縛られるときもあるので、自由なアプローチをできるのが羨ましいときもあるんですよ。

うん、ビールを(一杯だけだけど)飲んでいたので、なんか自分に都合の言いように翻訳してしまった気がする。けれどとにかく、なんか、励まされました。よし、演奏もっと頑張ろう!と思いました。自分のいいと思うことをやる自由さと、プロのいいところを取り入れることは必ずしも矛盾しない。そんなの簡単なことなのに、プロへの僻みと言うか劣等感みたいなもののせいで、変に難しく考えていました。

先日の福田先生の枝豆の話と共に、有り難く胸にしまわせていただきたいと思います。
松下先生、主催の高橋さん、協力の大阪ギタースクールさん、ありがとうございました。
プロフィール

あしゃお

Author:あしゃお
名前:麻尾佳史
住所:兵庫県宝塚市
年齢:昭和56年生まれ

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